Performing Arts Review (33)
宇多田ヒカルの「ことば」
平成29年6月30日 中 野 希 也
宇多田ヒカルは1983年1月19日New Yorkで生れた。
1998年(15歳)デビュー、1stアルバム First Loveは770万枚を超え、日本国内の歴代アルバムセールス1位となった。
2003年(19歳) 結婚。
「なにが起こるか分からない世界なら全ての確信は希望であり、また希望こそが最大の確信でもあると思うのです。愛する人と堂々と人生を歩んで行きたいという自然な気持ちからの決断です」
2007年(24歳)離婚。
「4年半の結婚生活から二人とも多くを学び、成長したと思います。『離婚は残念なことだけれど出会えてよかったね』と二人で話しました。同じクリエィターとして、大切な友人としてこれからもお互いの成長を見守っていけたらいいなと思います。」
2010年(27歳)
「なんかもう、手探りで、好奇心の赴くままあっちこっち迷走して、全然自分を大事にしないで、人と関わり合うってどういうことなのか、周りのひとのことを大事にするってどういうことなのか学ばないまま、楽しいこともたくさんしたけど結局無責任で、誰もしかってくれない、仕事はうまく行っても実際は破滅街道まっしぐら…みたいな」
そして翌月、突然活動を休止し「人間活動」に入ると発表した。
「振り返ると、15歳からずっと音楽ばっかりやってきました。『宇多田ヒカル』が音楽に専念できるように、周りから過保護に守られた生活をしてきました。年のわりには人生経験豊富だね~なんて言われるけれど、とても偏った経験しかしていません。」
2012年「桜流し」
♪開いたばかりの花が散るのを
「今年も早いね」と
残念そうに見ていたあなたは
とてもきれいだった
もし今の私を見れたなら
どう思うでしょう
あなたなしで生きている私を
Everybody finds love
In the end
もう二度と会えないなんて信じられない
まだ何も伝えていない
まだ何も伝えていない ♪
2013年、母藤圭子が死去。享年62.
「母はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。
誤解されることの多い彼女でしたが…とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思うとき心に浮かぶのは、笑っている彼女です。」
2014年 結婚
2016年 長男誕生
「母が亡くなってからは、あらゆる現象に母が含まれているのは当然かと思える。私の原点は母だった。悲しいと思っていたことが、すばらしいと思えるようになった。それが感じられるのは素晴らしいと思った。伝えたいという気持ちがめばえた。
『言葉』にならない思いを書いた。」
2016年「花束を君に」
♪普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した
花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
真実にはならないから
今日は贈ろう 涙色の花束を君に
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに済んだのにな
花束を君に贈ろう
言いたいこと 言いたいこと
きっと山ほどあるけど
神様しか知らないまま
今日は贈ろう 涙色の花束を君に
両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう
世界中が雨の日も
君の笑顔が僕の太陽だったよ
今は伝わらなくても
真実には変わりないさ
抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に
花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
君を讃えるには足りないから
今日は贈ろう 涙色の花束を君に♪
「自分の子供を見ていて思うのは、生れて最初のもの、体験、人格の基礎となるもの、世界観、そういったものを自分は全て忘れている。こわいというか、何かすごい気がする。みんな無意識の闇の中にある。
自分の子供を見ると、自分の空白の部分が見えてくる。
こんなことをしてもらったのだと親に感謝したい。自分がどこにいたかが見える。やっと腑に落ちた。そこに突き抜けた自分がいた。私は母をのりこえることができた。」
2016年「道」
♪私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
一人で歩いたつもりの道でも
始まりはあなただった
It’s a lonely road
But I’m not alone
そんな気分
どんなことをして誰といても
この身はあなたと共にある
一人で歩まねばならぬ道でも
あなたの声が聞こえる
It’s a lonely road
You are every song
これは事実
ここで、母親の藤圭子について書かないといけない。
1970年、「圭子の夢は夜ひらく」(赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花)で紅白に初登場、1972年には「京都から博多まで」(肩につめたい 小雨が重い 思いきれない未練が重い)と計5回出場し、一世を風靡した存在感があったが、私は彼女の言葉にふれたことは一度もない。
ところがつい最近、他の人が藤圭子について語っている記事に偶然出会った。
八代亜紀
昭和のよき思い出には、藤圭子ちゃんのこともあります。圭子ちゃんは1歳下だけどデビューは2年先輩。クールに見えてあがり性で、楽屋でいつも手が冷たくなって震えているの。「アキちゃんどうしょう」と言うから、「大丈夫よ」と両手でよく手を温めてあげました。圭子ちゃんが引退してアメリカに渡り、その後結婚して、しばらくして日本に戻ったときに何かの番組で再会したことがあります。 リハーサル時にスタジオを小さな女の子が走っていて、圭子ちゃんが「こらっ」と叱っていた。それが宇多田ヒカルちゃんでした。
前川清
71年に藤圭子さんと結婚し、翌年お別れしました。 娘の宇多田ヒカルさんには会ったことはないんですが、いわゆる歌謡曲は歌わなくても、やっぱり声の質感、歌い方、似てるなぁと思います。短い結婚生活でしたが、影響はお互い受けたと思っています。そんな藤圭子という女性がいたからこそ宇多田ヒカルさんという存在も生れた。 今も、1年に1回、彼女の歌を歌うんです。感謝を込めて。
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