2019年5月3日金曜日

【中野さんの文化コラム】Performing Arts Review (37) 米国で聞いた日本語の「上を向いて歩こう」(1961)

Performing Arts Review (37)

米国で聞いた日本語の「上を向いて歩こう」(1961)

令和1年5月3日 中 野 希 也


大好きな日本の歌がそのまま、ラジオから流れてきた。30年間で初めての経験である。 私は、約半世紀プレイバックしなければならない。

♪上を向いて歩こう  涙がこぼれないように
思い出す春の日   一人ぼっちの夜♪


                
1 1960年歌われたヒット曲
「紅白歌合戦」の曲目は、常に流行歌と洋楽カバーに大別されると言ってよい。
1) 流行歌ー大手レコード会社が専属の作詞家・作曲家を抱え専属の歌手が歌う体制
「哀愁波止場」(美空ひばり)夜の波止場にゃ誰ァれもいない 霧にブイの灯泣くばかり
「潮来笠」(橋幸夫)潮来の伊太郎 ちょっと見なれば 薄情そうな渡り鳥 
「誰よりも君を愛す」(松尾和子)誰にも云われず たがいに誓った かりそめの恋なら 忘れもしょうが
2 洋楽カバー
「情熱の花」(ザ・ピーナッツ。ベートベンの“エリーゼのために”が原曲)
小さな胸に 今宵もひらくは 情熱の花 恋の花よ
「コーヒールンバ」(西田佐知子。ベネズエラの曲がオリジナル)         
昔アラブの偉いお坊さんが 恋を忘れたあわれな男に
「イッツ・ナウ・オア・ネバー」(水谷良重。米国Presley1960のヒット曲)
It’s now or never, come hold me tight, kiss me my darling, be mine tonight, tomorrow will be too late

2 NHKバラエティ番組「夢であいましょう」
1961年4月から毎週土曜日夜10時台に生放送された。
番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。毎月1曲、アマチュアコンビの永六輔作詞・中村八大作曲によるフレッシュな感覚の「今月のうた」がつくられた。二人とも早稲田文学部出身で30歳前、旧来の歌謡界にはない『新しい歌』が誕生した瞬間だった。













この歌は10月に発表され、19歳のロックンロール歌手の坂本九が歌った。レコードが発売されると爆発的なヒットとなった。レコード売り上げランキングでは1961年11月 - 1962年1月まで3ヵ月にわたり1位を独走した。そして1963年、米国発売が計画された。

「上を向いて歩こう」ではタイトルが長くなってしまうので短くわかりやすい日本語の曲名をつけようとしたが、米人の担当者の知っていた日本語は「SUKIYAKI」と「SAYONARA(さよなら)」ぐらいだった。「サヨナラ」では暗すぎるので「SUKIYAKI」の題でキャピトル・レコードから発売が決定した。アメリカでレコードが発売されると、音楽雑誌Billboard誌 Hot 100で3週連続、連続1位のヒットとなった。アジア圏の楽曲による1位制覇は、いまだに「上を向いて歩こう」のみである。
この大ヒットを受けて、坂本九は渡米、空港に到着した際3000人を超える坂本のファンが押し寄せた。テレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」にゲスト出演し、さらにアメリカ国内の売り上げが上昇して100万枚を突破し、翌1964年5月15日には外国人としては初めての全米レコード協会のゴールドディスクを受賞した。1981年には黒人女性デュオ A Taste of Honeyが英語版を発売、Billboard最高位3位、1993年黒人ラッパー Snoop Doggy Dogg がデビューアルバムで取り上げ、史上初の全米チャート初登場第一位に輝く。1995年。ボーカルグループ 4PMがカバー、最高位8位を記録した。このほか世界約70ヵで発売され、総売り上げは1300万以上とされる。

               

3 何故アメリカで大ヒットしたか
中村八大・坂本九とも中学生の時代から直接米国の曲に馴れ親しみ、リズム感・ハーモニー・メロディー感が身につき、米国人にとっては日本製というよりも自国の歌として耳に響いたのであった。
作曲・編曲の中村八大(なかむら はちだい、1931-1992)は、自宅には、ピアノ、蓄音機、レコードがあるという恵まれた音楽環境であった。東京藝大の付属学園に週2回通いピアノと作曲の英才教育を受ける。終戦後再び大っぴらに音楽活動ができるようになり高校で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。米国音楽が流れこんできた時代で、進駐軍向けの短波放送(FEN-Far East Network)で米国のヒット曲を自作の鉱石ラジオでを聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた。
高校時代は生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。大学入学後バンド結成、音楽雑誌の人気投票ではピアニストとしては1位を勝ち取った。

坂本九(1941-1985)は、川崎市に生まれ土地柄邦楽はもとより洋楽の影響も多分に受けて育った。小学生の頃からNat King Coleも歌い中学生になると当時最も新しい音楽のロックンロールに感化されていく。当時はまだまだロックンロールは音楽的な市民権を得てなかったこともあり、坂本の歌はとても個性的で注目されたが、保守的な大人からはそれほど評価はたかくなかった。カバー歌手は他にもいたが体の芯から理解して日本語を英語のようなグルーブで歌うのは初めての歌手だった。高校生の時にはElvis Presleyに憧れるようになり、右の出る者が他にいなかったと言われるほどPresleyの物真似で仲間内の人気者となった。初めて立川の将校クラブでアメリカ人を相手に人前で歌ったのは、Presleyの “Hound Dog”(1956)だった。

4 新しい日本の音楽シーン
永・中村の活躍により、以降は専属作家による寡占状態は徐々に弱まり、岩谷時子、宮川泰、いずみたく、浜口庫之助、加山雄三らが後に続きレコード会社の専属作家というシステムはほぼ終焉を迎えた。グループ・サウンズブームの後に吉田拓郎、小田和正、井上陽水、更には中島みゆき、荒井由美、竹内まりやが現れ、シンガー・ソングライターの時代が始まった。


♪悲しみは星のかげに  悲しみは月のかげに
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
泣きながら歩く  一人ぼっちの夜♪ 




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