2018年10月30日火曜日

【中野さんの文化コラム】Performing Arts Review (35) 米国の母体イギリスの食事文化とは

Performing Arts Review (35)

米国の母体イギリスの食事文化とは

平成30年10月23日 中 野 希 也

私が米国に赴任する前に先輩から聞いた経験談は「食べ物の種類は沢山あるが、日本人にとって美味しいものは少ない」。また会話のときの参考になるからと渡された「世界ジョーク集」の一つに「一番まずい料理は、スパイスを忘れたインドのカレー、わさびの入っていなし寿司、そしてイギリス料理」とあった。これは、私たちの偏見ではなく、2005年、当時のフランス大統領シラクは「イギリス料理はフィンランドの次にヨーロッパでもっともまずい。そんなに不味い料理を食べている人たちは信用できない」と発言した。

こちらに来てからは、滞米経験の長い知人は語った。
「料理とは、元来朝廷や宮廷の中で育まれ洗練されたもの。米国では共和制のため発達の余地はない」
「もし米国がフランスから独立したのであったら食事はまったく別のものだったろう」等々
当時は妙に分かった気がしたものの心の中にずっと疑問が残った。

「英国はフランス・イタリア・スペイン・ドイツ等と同じく、王侯・貴族が統治した国家であるのに何故英国の食事は不味いのか、おいしい『イギリス料理』は存在しないのか? 一体イギリス人の料理感とは?」

昨年、「王様でたどるイギリス史」(岩波新書 東大大学院教授池上俊一著)を手にして納得した。
明解且つ痛快な著者の口吻を伝えるため、そのまま文章を転記しょう。
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イギリス料理は本当にまずいのでしょうか。だとすると、そこにはどんな原因があるのでしょう。もちろん、気候が豊富な作物栽培に向いていないと言う自然環境の差はあるでしょうが、それは技術革新や世界的な農作物流通で解決されうる問題でしょう。

メイフラワー号に乗りイギリスより102人のピューリタン(清教徒)が来航したのは、1620年だった。1629年、かなり大きな400人の開拓者集団がマサチューセッツ湾植民地を設立した。彼らは新世界で新しく純粋な教会を創設することでイングランド国教会を改革しようとした。1640年までに2万人が到着した。多くの者は到着後間もなく死んだが、他の者は健康的な気候を見出し、豊富な食糧を供給できるようになった。 ピューリタンは深遠な宗教、社会的に緊密な結びつきおよび政治的に革新的な文化を創り出し、これが現在のアメリカ合衆国にも生きている。彼らはこの新しい土地が「改革者の国」として機能することを期待した。彼らはイギリスから逃げてきており、アメリカで「聖者の国」すなわち「丘の上の町」を造ろうとした。厳格な宗教と完全に公正な社会がヨーロッパ全てにとって規範であろうとした。


イギリス中世の王侯貴族の間では大食を善しとする風習があり20世紀初頭には大食の伝統が頂点に達した。対して女王の食事は質素だったようで、たとえばエリザベス一世のディナーはいつも二つのコースでそれぞれのコースには多くの種類の肉が出されたものの、女王はほんの少ししか食べなかったといいます。ワインはめったに飲まず、ビールを好みました。
このように近代までは大食漢の王もいましたが、ジェントルマンや中産階級においては、近世以降の全体の趨勢として、節制に努めることと食への無関心が広まっていきました。

その第一のきっかけは、宗教改革です。ピューリタン革命の指導者クロムウエルは、クリスマスにさえ断食を敢行して人々に倣わせました。17世紀の牧師バクスターは「食事時間など15分もあれば十分で、一時間も費やすなど馬鹿げたことだ」と言ってますし、「おいしそうな食事は悪魔の罠なので目にすべきではなく、貧者の粗食を食べるようにすれば地獄堕ちから免れる」とも説いています。(注。メイフラワー号で米国に向かったのは、このピューリタン)

こうした説教をいつも聞かされていれば、食事への関心などなくしていくことでしょう。宗教改革の後、イギリスのジェントルマンたちの間では、フランスが王とその宮廷を中心に食に妄執して堕落したのに対抗して、「羊、牛、鹿などの肉を茹でるか焼くだけでソースなどかけずに食べること」が勧められました。ジェントルマン階級の子弟が成長期の大半を過ごすパブリック・スクールも、粗食主義訓練の場となりました。アクトン郷は学寮の食事にでた「汚く油っぽいマーガリン、毛のついた豚・仔牛の頭・足肉のゼリー寄せ、漬け豚肉、ごつごつしたポリッジを、こっそりハンカチにくるんでトイレに棄てた」と回想しています。

近年でも、パン、野菜スープに豆類とポテト、それに安い鱈か鰊の燻製があれば十分で、週1-2回、安価な鶏肉かソーセージ類を食べれば満足、というイギリス紳士が多いようです。
農民や労働者階級はもっと粗食でした。18世紀後半からはジャガイモは労働者階級の食事を代表する食材として安い魚とともに大量に供給できるようになり、これが1860年代以降から、現在イギリス料理を代表する「フィッシュ・アンド。チップス」として普及していったのです。


しかし、現在のイギリス料理の「まずさ」を決定づけたのは、ヴィクトリア朝の中産階級だったようです。彼らは快楽を表に現すことにナーバスになり、自ら禁じました。彼らは産業発展の波に乗ってお金を貯めちょっと良いつくりの家に素敵な家具を整えて住むようになりましたが、その傍らには不満をかかえる貧者が群れていたのです。ですからせめて食べ物を粗食にして食に無感動になることで、罪悪感を払おうとしたのでしょう。

彼らは食に快楽を覚えることを身の破滅と社会的堕落の道と考え、おいしそうに、または飢えているように食べてはならないと、子どもたちにも厳しく禁じました。要するに食べ物の力を無力化すべきで、子どもたちが食事に興味をもつことのないよう日々努めたのです。
育児書でも「離乳食は単調でまずくすべきで、魂のため、身体が嫌う食べ物を子どもに与えねばならない」とされました。まずくて味気ない食べ物が、最良なのです。マッシュ・ポテト、ライス・プディング、ポリッジ、煮るか焼いた羊肉、葉野菜・・・いずれも味気ないものにして、生涯にわたる食べ物への不信が子どもたちに植え付けられました。

こうして17世紀以降、とりわけ19世紀には、庶民はもちろん貴族さえ食事量を減らすとともに、その「おいしさ」に頓着しなくなっていきました。イギリス人にとって、食事は文化とは無関係の生きるための燃料補給にすぎないのです。
そしてだからこそ、19世紀に大英帝国を築けたのではないでしょうか。どこへ行っても食べ物を気にせず「燃料」として口の中、腹の中にそそくさと放り込んでおけばよい、そんなたくましい男たちがいなくては、植民地経営は成り立たなかったでしょうから。

何故、隣国のフランスのように料理に秀でた国にならなかったのかの疑問に対して、著者は喝破している。


「英国の国民意識の形成は、フランスとの間で1700年初頭から130年もの間続いた断続的かつ熾烈な戦争に代表される根深い敵対感情に負っている。この時期の仇敵がフランスであり、近代イギリス文化・社会が、反フランス文化・社会というフランスの陰画にほかならなかった。たとえばフランス人のようにワインばかり飲んでいては堕落して享楽生活に溺れてしまうと」

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